伊丹十三「女たちよ!」のなかにあるフツウの感覚
愛媛県にある伊丹十三記念館に行ってきました。伊丹十三記念館は建築家の中村好文さんが建てた建物で、その空間も心地よいものです。
その中村好文さんが好きだったのが伊丹十三のエッセイだそうです。その中でも有名な「女たちよ!」と言うエッセイ集を読んでみました。
伊丹十三(1933~1997)は映画俳優、デザイナー、エッセイスト、映画監督…などなど、様々な肩書きを持っていた人です。やはり様々な仕事をやっていたからか、多様な視点がエッセイの中で現れていて、私たちの視野を広げてくれます。
その中でもこの部分に心が響きました。
格好つけたファッションデザイナーやお金持ちのキラキラしたイメージとはかけ離れた「ふつう」をすごく追求されている言葉だと思います。本人はそんなものを追求したつもりはないと思いますが、これは多くの人が共感されるのではないでしょうか。
ぼくはこの言葉にスティーブジョブズの言葉を思い出しました。
スティーブ・ジョブズは、 iPod の外見を損ねるものには、カバーであれ何であれ、非常に敏感に反応するのだ。
私は彼とのインタビューを録音する際に、外付けマイクと iPod を持っていったことがある。
「iSkin」という透明プラスチックのカバーをつけた iPod を鞄から取り出した途端、彼は私に名画「モナリザ」に牛の糞をなすりつけた犯罪者を見るような目を向けたものだ。
もちろん私は、繊細なiPodに傷や汚れをつけたくないのだと言い訳したが、彼は聞き入れようとしなかった。
「僕は、擦り傷のついたステンレスを美しいと思うけどね。僕たちだって似たようなもんだろう?僕は来年には五十歳だ。傷だらけの iPod と同じだよ」
スティーブン・レヴィ『iPod は何を変えたのか』
あれだけ鋭い完璧なプロダクトを制作しているジョブズでも、時間の経過や自然の汚れというものを美しいものと言い切っています。逆に言えば 時間が経っても耐える構造を持っているからこそ、その先の美しさに到達できると言えます。例えば、岡本太郎は老人こそもっとも美しいと言っています。美しさは「可愛い」とか安易な言葉ではないということがうかがえます。皺やシミから伝わるその人物の生き様こそ、本当に心の底に響くものをもたらすのではないでしょうか。
女は40を過ぎて
始めておもしろくなる。
これはココ・シャネルの名言です。
このような一般的にネガティブなものととらえられがちな考えをを逆手に取って思考する思考法は、伊丹十三などのように無意識に行えるならともかく、一般の人には難しいものかもしれません。なぜなら、新しい視点というものは普段の生活では元々見えないもの、つまり、見なくても生きることに支障はでないものですから、見ようと努力しなければ得られません。
しかし、これを努力することの優位性は計り知れないものだと僕は思います。生きるために仕事に追われる人生の中で、自分の行っていることの意味を面白いものにしなければ、人生は苦められる一方です。自分の行っていることが、自分の趣味と全くかけ離れたものであっても、視点によってその二つを結びつけられることは間違いありません。「興味がない」という思考を「なぜ興味がないのか」と深めるだけでも、新しい視点に繋がります。「興味がないのは○○だからだ」→「だったらこの部分は好きかもしれない」→「この部分を深めたらより自分の興味に繋がるのではないのか」
そう考えていくうちに、結果的に人とは少し違った視点が生まれていくように思います。
ここで、疑問が生まれます。始めは「ふつう」について語っていたはずなのに「人とは違った」という言葉がでてきてしまいました。
この「ふつう」というのは「常識的」という意味ではありません。「人間的な」という意味です。「人間的な」という言葉は「ふつう」というイメージを連想させるのではないでしょうか。しかし「人間的な」人々は今どれほどいるでしょうか。考えてみてください。自分の利益のことばかり考えて行動する政治家、相手の真意を知りもしないで報道するマスコミ、自分の周囲の発展だけを考え生命を尊重しない会社。いつのまにか「ふつう」はねじ曲げられてしまっています。
いまこそ、この間違いだらけな世の中で生きていくために、常識人を捨て、新しい視点を生み出し続ける「ふつう」な人間になるべきです。そうしなければ、常識に押しつぶされる憂鬱な人生を送るような気がしてなりません。