クリストファー・ドレッサーのデザイン研究から読む現代のデザイン

 クリストファー・ドレッサーとは十九世紀後半に活躍したイギリスのデザイナーで、植物学者からはじまり、その後装飾美術の分野で生活全般のデザインを手がけています。ドレッサーは日本の工芸の分野を高く評価しており、1876年に日本に来日して日本の工芸産業を世界へ輸出するための産業指導を行うとともに、自信も莫大な量の工芸品を買い取り宝飾店へ届けたり、競売にかけたりしたそうです。ドレッサーが日本の工芸産業にもたらした影響は非常に大きかったと思います。

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 「クリストファー・ドレッサーのデザイン研究は」ドレッサーが日本に来日する以前に書き上げた彼のデザイン論をまとめたものです。その内容は「人が快適に暮らすために装飾美術はどうあるべきか」という問題の本質つくもので、当時の時代背景や文化は違えど現代に生きるデザイン哲学を感じられました。

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 特に私が注目したのは、ドレッサーが装飾の様式に関して歴史的なデザイン研究の重要性について論じていた点です。ヨーロッパでは時代によって様々な様式が展開してきましたが、特にイギリスでは十九世紀に入ってから、スタイルの戦いが起こります。当時の優秀な建築家がクラシック派であったのに対し、その貴族的な美学に反発した平民がゴシック建築を選び、趣味の下落が起こりました。その発端は1934年に全焼した国会議事堂にあると言われており、イギリスで最も重要な議事堂のためのスタイルはどうあるべきか、という疑問から問題が浮き彫りになったようです。

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↑イギリス国会議事堂

 

 ドレッサーは1847年からロンドンのデザイン学校でデザインを学んでいるため、まさにこの時代に生きた人と言えます。この本では、ゴシック装飾に対して「初期ゴシックーー十三13世紀ーーは、その後のゴシックより優れている。建築においてゴシックの用語を用いるが、尖ったアーチが使われている以外はほとんどその用語はおおざっぱな解釈である。我々がギリシャやイタリアの様式に触れるとき、明確な用語としてはほとんど使われていない。」とあるため、ドレッサーも当時の建築家同様、ゴシック様式に疑問を持っていたことが分かります。

 さらに、次のように書いてあります。「過去の様式がその必要に応じて作られ、我々自身とは違う気候の中で生活している人々の感情と宗教の感性を表現しているという事実は、我々の一般的な要求に適応できないことを示している。(中略)我々はほとんど中世の家の装飾を知らないのである。」つまり彼は、様式はその表面的な形をなぞることではなく、その様式の文化を理解したうえでつくるものであり、デザイナーは自身の精神をも変えていかなければならないと考えています。

 さらに、様式の革新性についてはこう言っています。「特別な様式でデザインしたいと望んでいるとき、私はこのようにする。様式の全ての修正するところを研究し、その後、その装飾の精神で満たされるまで最高の時期の作品をあれこれと熟慮してゆく。」私は、これはデザインの本質であると思います。対象の(ここで言うと様式の)真実を見抜く目を持ち、さらにその文化・社会の背景を考慮した上でデザインする。この姿勢を持ったデザイナーが当時どれだけいたのでしょうか。本の中には、周囲のデザインに呆れているドレッサーの意見も書かれていました。

 

 しかし、戦後の日本のデザインの問題はそれ以上であった思います。戦後の日本にとって、目指すモデルはアメリカでした。それに比べてヨーロッパ、特にフランスなどでは、隣国ドイツの発展に対する反発により、フランスのアイデンティティを保つ制作がとられていました。それによって、フランスらしいデザインの統一が行われたのですが、日本における日本建築や工芸の分野におけるアイデンティティは、戦後の急激な経済発展によって不鮮明になったように思います。 

 例えば「和風」という言葉があります。和風と聞くと、日本的なものという漠然としたイメージはあります。しかし、本当の「和」とは何なのでしょうか。私は身の回りにある「和風」という名のデザインが、「和っぽいもの」としか思えません。本当に今の時代に必要な「和」をデザインするのであれば、「和風」という中途半端なデザインは卒業して、「和のデザイン」と自信をもって言えるデザインを生み出さなくてはなりません。

 「和のデザイン」を実践するためには、様式に関するこだわりを持ったドレッサーのデザイン論がまさに当てはまります。彼の様式に関する思考を「和」に当てはめると、「和のデザインの全ての修正するべきところを研究し、その後、そのデザインの精神で満たされるまで最高の時期の作品をあれこれと熟慮してゆく」となります。これは現代のデザインの問題に対する一つの解決策だと思います。このような文化に根付いた徹底さがなければ、本当の意味で良い、歴史に残るデザインが生まれないのではないでしょうか。和の再思考がもし行われたならば、ピントがぶれぶれな2020年度オリンピックのデザインに関する様々な問題も、解決の兆しが見えると思います。様式に関するドレッサーのデザインの精神は、まさしく現代の日本に生きるべきものです。

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