伊丹十三「女たちよ!」のなかにあるフツウの感覚

 愛媛県にある伊丹十三記念館に行ってきました。伊丹十三記念館は建築家の中村好文さんが建てた建物で、その空間も心地よいものです。

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 その中村好文さんが好きだったのが伊丹十三のエッセイだそうです。その中でも有名な「女たちよ!」と言うエッセイ集を読んでみました。f:id:lmnyuwa:20150812225137j:plain

 

 伊丹十三(1933~1997)は映画俳優、デザイナー、エッセイスト、映画監督…などなど、様々な肩書きを持っていた人です。やはり様々な仕事をやっていたからか、多様な視点がエッセイの中で現れていて、私たちの視野を広げてくれます。

 その中でもこの部分に心が響きました。f:id:lmnyuwa:20150812225948j:plain

 

 格好つけたファッションデザイナーやお金持ちのキラキラしたイメージとはかけ離れた「ふつう」をすごく追求されている言葉だと思います。本人はそんなものを追求したつもりはないと思いますが、これは多くの人が共感されるのではないでしょうか。

 ぼくはこの言葉にスティーブジョブズの言葉を思い出しました。

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スティーブ・ジョブズは、 iPod の外見を損ねるものには、カバーであれ何であれ、非常に敏感に反応するのだ。 

私は彼とのインタビューを録音する際に、外付けマイクと iPod を持っていったことがある。 

「iSkin」という透明プラスチックのカバーをつけた iPod を鞄から取り出した途端、彼は私に名画「モナリザ」に牛の糞をなすりつけた犯罪者を見るような目を向けたものだ。 

もちろん私は、繊細なiPodに傷や汚れをつけたくないのだと言い訳したが、彼は聞き入れようとしなかった。 

「僕は、擦り傷のついたステンレスを美しいと思うけどね。僕たちだって似たようなもんだろう?僕は来年には五十歳だ。傷だらけの iPod と同じだよ」 

スティーブン・レヴィ『iPod は何を変えたのか』

 

 あれだけ鋭い完璧なプロダクトを制作しているジョブズでも、時間の経過や自然の汚れというものを美しいものと言い切っています。逆に言えば 時間が経っても耐える構造を持っているからこそ、その先の美しさに到達できると言えます。例えば、岡本太郎は老人こそもっとも美しいと言っています。美しさは「可愛い」とか安易な言葉ではないということがうかがえます。皺やシミから伝わるその人物の生き様こそ、本当に心の底に響くものをもたらすのではないでしょうか。

 この視点は赤瀬川原平の「老人力」などからも感じ取れます。

 

 女は40を過ぎて

 始めておもしろくなる。

 これはココ・シャネルの名言です。f:id:lmnyuwa:20150812232546j:plain

 

 このような一般的にネガティブなものととらえられがちな考えをを逆手に取って思考する思考法は、伊丹十三などのように無意識に行えるならともかく、一般の人には難しいものかもしれません。なぜなら、新しい視点というものは普段の生活では元々見えないもの、つまり、見なくても生きることに支障はでないものですから、見ようと努力しなければ得られません。

 しかし、これを努力することの優位性は計り知れないものだと僕は思います。生きるために仕事に追われる人生の中で、自分の行っていることの意味を面白いものにしなければ、人生は苦められる一方です。自分の行っていることが、自分の趣味と全くかけ離れたものであっても、視点によってその二つを結びつけられることは間違いありません。「興味がない」という思考を「なぜ興味がないのか」と深めるだけでも、新しい視点に繋がります。「興味がないのは○○だからだ」→「だったらこの部分は好きかもしれない」→「この部分を深めたらより自分の興味に繋がるのではないのか」

 そう考えていくうちに、結果的に人とは少し違った視点が生まれていくように思います。

 

 ここで、疑問が生まれます。始めは「ふつう」について語っていたはずなのに「人とは違った」という言葉がでてきてしまいました。

 この「ふつう」というのは「常識的」という意味ではありません。「人間的な」という意味です。「人間的な」という言葉は「ふつう」というイメージを連想させるのではないでしょうか。しかし「人間的な」人々は今どれほどいるでしょうか。考えてみてください。自分の利益のことばかり考えて行動する政治家、相手の真意を知りもしないで報道するマスコミ、自分の周囲の発展だけを考え生命を尊重しない会社。いつのまにか「ふつう」はねじ曲げられてしまっています。

 いまこそ、この間違いだらけな世の中で生きていくために、常識人を捨て、新しい視点を生み出し続ける「ふつう」な人間になるべきです。そうしなければ、常識に押しつぶされる憂鬱な人生を送るような気がしてなりません。

 

 

クリストファー・ドレッサーのデザイン研究から読む現代のデザイン

 クリストファー・ドレッサーとは十九世紀後半に活躍したイギリスのデザイナーで、植物学者からはじまり、その後装飾美術の分野で生活全般のデザインを手がけています。ドレッサーは日本の工芸の分野を高く評価しており、1876年に日本に来日して日本の工芸産業を世界へ輸出するための産業指導を行うとともに、自信も莫大な量の工芸品を買い取り宝飾店へ届けたり、競売にかけたりしたそうです。ドレッサーが日本の工芸産業にもたらした影響は非常に大きかったと思います。

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 「クリストファー・ドレッサーのデザイン研究は」ドレッサーが日本に来日する以前に書き上げた彼のデザイン論をまとめたものです。その内容は「人が快適に暮らすために装飾美術はどうあるべきか」という問題の本質つくもので、当時の時代背景や文化は違えど現代に生きるデザイン哲学を感じられました。

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 特に私が注目したのは、ドレッサーが装飾の様式に関して歴史的なデザイン研究の重要性について論じていた点です。ヨーロッパでは時代によって様々な様式が展開してきましたが、特にイギリスでは十九世紀に入ってから、スタイルの戦いが起こります。当時の優秀な建築家がクラシック派であったのに対し、その貴族的な美学に反発した平民がゴシック建築を選び、趣味の下落が起こりました。その発端は1934年に全焼した国会議事堂にあると言われており、イギリスで最も重要な議事堂のためのスタイルはどうあるべきか、という疑問から問題が浮き彫りになったようです。

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↑イギリス国会議事堂

 

 ドレッサーは1847年からロンドンのデザイン学校でデザインを学んでいるため、まさにこの時代に生きた人と言えます。この本では、ゴシック装飾に対して「初期ゴシックーー十三13世紀ーーは、その後のゴシックより優れている。建築においてゴシックの用語を用いるが、尖ったアーチが使われている以外はほとんどその用語はおおざっぱな解釈である。我々がギリシャやイタリアの様式に触れるとき、明確な用語としてはほとんど使われていない。」とあるため、ドレッサーも当時の建築家同様、ゴシック様式に疑問を持っていたことが分かります。

 さらに、次のように書いてあります。「過去の様式がその必要に応じて作られ、我々自身とは違う気候の中で生活している人々の感情と宗教の感性を表現しているという事実は、我々の一般的な要求に適応できないことを示している。(中略)我々はほとんど中世の家の装飾を知らないのである。」つまり彼は、様式はその表面的な形をなぞることではなく、その様式の文化を理解したうえでつくるものであり、デザイナーは自身の精神をも変えていかなければならないと考えています。

 さらに、様式の革新性についてはこう言っています。「特別な様式でデザインしたいと望んでいるとき、私はこのようにする。様式の全ての修正するところを研究し、その後、その装飾の精神で満たされるまで最高の時期の作品をあれこれと熟慮してゆく。」私は、これはデザインの本質であると思います。対象の(ここで言うと様式の)真実を見抜く目を持ち、さらにその文化・社会の背景を考慮した上でデザインする。この姿勢を持ったデザイナーが当時どれだけいたのでしょうか。本の中には、周囲のデザインに呆れているドレッサーの意見も書かれていました。

 

 しかし、戦後の日本のデザインの問題はそれ以上であった思います。戦後の日本にとって、目指すモデルはアメリカでした。それに比べてヨーロッパ、特にフランスなどでは、隣国ドイツの発展に対する反発により、フランスのアイデンティティを保つ制作がとられていました。それによって、フランスらしいデザインの統一が行われたのですが、日本における日本建築や工芸の分野におけるアイデンティティは、戦後の急激な経済発展によって不鮮明になったように思います。 

 例えば「和風」という言葉があります。和風と聞くと、日本的なものという漠然としたイメージはあります。しかし、本当の「和」とは何なのでしょうか。私は身の回りにある「和風」という名のデザインが、「和っぽいもの」としか思えません。本当に今の時代に必要な「和」をデザインするのであれば、「和風」という中途半端なデザインは卒業して、「和のデザイン」と自信をもって言えるデザインを生み出さなくてはなりません。

 「和のデザイン」を実践するためには、様式に関するこだわりを持ったドレッサーのデザイン論がまさに当てはまります。彼の様式に関する思考を「和」に当てはめると、「和のデザインの全ての修正するべきところを研究し、その後、そのデザインの精神で満たされるまで最高の時期の作品をあれこれと熟慮してゆく」となります。これは現代のデザインの問題に対する一つの解決策だと思います。このような文化に根付いた徹底さがなければ、本当の意味で良い、歴史に残るデザインが生まれないのではないでしょうか。和の再思考がもし行われたならば、ピントがぶれぶれな2020年度オリンピックのデザインに関する様々な問題も、解決の兆しが見えると思います。様式に関するドレッサーのデザインの精神は、まさしく現代の日本に生きるべきものです。

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柳宗理『バタフライスツール

 

 

 

火花は夢を追う者の切実さを代弁している。

 芥川賞受賞をしたことで有名な「火花」を読みました。初の漫才師の受賞に対して「受賞は早すぎたんじゃないか」などの疑問の声もありましたが、個人的には、賞を取るだけの魅力が十分にある作品だと思いました。

 夢を追う若者の話だったため私と共感できる部分がありつつ、好きなことをして生活することの厳しさもリアリティをもって描かれていたことで、焦りを感じさせられました。

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 この話は芸人を目指す若者の葛藤の物語ですが、私はそもそもお笑いが好きではありません。昔から家でテレビを見る習慣がなく、たまに見ても映画やニュース程度でした。そのため、子供の頃から周囲の会話についていけないことがよくありました。しかし特にそれに関して悩む機会もありませんでした。

 状況が変わったのは中学二年生の時、当時好きな子がお笑いが大好きだったのです。心躍る想いでその子と会話をしていたある日「○○って人(有名な芸人の名前)知ってるよね?」と聞かれました。私は全くその名前を聞いたことがなかったので「ん〜歴史上の人物?」と言ったところ、大笑いされました。好きな子に馬鹿にされるような大笑いをされるとショックですよね。このままでは駄目だと思って、その日からいくつかのお笑い番組を見始めたのですが、どうしても面白さが分からず、結局諦めました。あ、僕は時代に取り残されてるな…と感じたような記憶があります。

 

 とまあこれは私の昔話で、これ以上は関係ありません。つまり私はお笑いに関してほとんど理解がないのです。そんな中私は、「分からない」としているものに必死で人生を賭けている主人公の物語を読むこととなったわけです。主人公やその周辺の人物にとって、笑いが人生そのもですが、私には人生を賭ける価値のあるものだと思えません。その違和感に、始めは「なるほど、こんな人も世の中にはいるのか」と他人事のように思っていました。しかししばらく読み進めると、「あれ、これって私たち(美大生)も同じか…」と気づきました。改めて自分を客観視したようなものです。どんな分野でも(私でいうと美術ですが)、必死に人生を賭けているのはあくまで個人的なもので、他人や社会に自分の努力や信念といった部分を理解してもらうことは難しい…。考えてみれば当然です。

 

 しかし、この作品は、その個人的な部分である葛藤や泥臭い人生を存分に読者に知らしめることができていると思います。それは「最後は満足できてよかったね」とか「努力って素晴らしいね」とかいうような安易な感動ではありません。毎日毎日、笑いについて考えて生きている主人公とその先輩の思考が、人間関係を通して生々しく露呈されている姿は、ため息が出るほど切実なものです。最後に近づくにつれ、文章全体が声にならない叫びのようにも感じました。

 私も人生の中で、馬鹿にされたり、侮蔑の目で見られることは多々あると思います。しかしそれでも、この作品のように切実な叫びを発せられる生き方ができたなら、幸せだと思える人間になりたいと心から願います。

 

佐藤可士和のクリエイティブシンキング

 今日は「佐藤可士和のクリエイティブシンキング」を読みました。佐藤可士和さんは僕が高校の頃から尊敬しているデザイナーで、本もよく読んでいました。「佐藤可士和のクリエイティブシンキング」も読むのは三度目くらいなのですが、読んだ内容を自分なりにまとめたことがなかったので、ブログを始めたきっかけにもう一度読み返しました。

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 毎度思うのですが、可士和さんの本はとても読みやすいです。伝えたい内容が明快に書かれていて、文章も読者に伝わるようデザインしているという意思を感じます。「相手に考えを伝える」ということは、可士和さんが考えているだけではなく、一般的にコミュニケーションをする時は、誰しも考えることだと思います。しかし、私は相手に伝えることができていないと反省することが多々あります(それが今回この本を読み直すきっかけの一つなのですが)。そして私が反省する機会があるように、円滑なコミュニケーションに苦戦している人は多くいるのではないでしょうか。この本を読んで改めて、モヤモヤしている物をハッキリさせ、相手に(もしくは自分に)伝えるということの重要性を実感しました。

 

 意外に美大の中ではコミュニケーションは円滑です。皆それぞれ美意識やアイデンティティを持っていて、これが良いとか悪いとかは自信を持って意思表示しますが、同じ美術を学ぶ者同士ということで、美的感覚に対しては意見の一致が多いです。いわゆる阿吽の呼吸というやつです。

 

 しかし一歩美大の外に出てみると違います。言葉が無ければ、まったく作品を理解されないのです。これは美大生なら一度は感じることなのではないでしょうか。作品に対するプレゼンテーションは美大を離れれば離れるほど、その精度の高さが問われます。

 

 僕もそれを実感した経験があります。以前、自分の作品について大手広告代理店にてプレゼンテーションする機会がありました。作品に関しては好印象だったのですが、より深く突っ込まれると的確な意見が言えませんでした。最後には「美しいからです」とか「こういうイメージなんです」とかプレゼンでは禁物とも言える「抽象的な言葉押し」をしてしまいました。

 本の中で可士和さんは、

『単に自分が好きだから他の人も好きに違いない、というような短絡的なアプローチでは、結局押しつけになってしまいます。個人的に好きなことと、社会で共有できる価値をきちんと見極めることが大切です』

 と書かれています。これは、多くの方からすれば「当然じゃん」という感じなのだと思います。しかし、自分よりになりがちな美大生活の中で、私はそれを見落としていました。

 

 かなり個人的な話になってしまいましたが、これはいわば、私個人のクリエイティブの問題に対して、この本が答えを出してくれた解決法だと思います。おそらく次に別の問題が出てきた時にも、またこの本を読めば解決法が見いだされると思います。それほど可士和さんの考えている創造的思考法は明快で納得がいくものです。この思考法を身につけ、狙い通り相手の心を撃つ作品をつくりたいものです。

 

 

 

 

 

 

「デザインの骨格」読みました。

私にとって人生で初めてのブログとなります。

近頃、勉強(趣味)のために本を読むことが多いのですが、読んだことをいちいち忘れてしまいます。そこで、ブログに書いてアウトプットすれば記憶がもっと定着するのではないかな、と思って始めました。

 

まあ、ブログの空気感をまだ理解できていないうえ、素人のブログを読む方はいるのかいないのか…という程度だと思うので、書きたいように書いていこうかなと思っています。

 

さっそくですが、今回読んだ本はプロダクトデザイナーである山中俊治さんの「デザインの骨格」です。

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本を読んで伝わってくる山中さんの人間としての精密さには驚きました。「仕事に隙がない」というとプロとしては当然と言われるかもしれませんが、この方は広範囲にスキルが広がっており、その隅々まで完璧に整備されているように感じます。

 

特に、山中さんのスケッチには驚かされました。

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美しいです。

哲学者のカントは「手は外部に表れた脳である」と言ったそうですが、この手の動きの痕跡を見ると、山中さんの手の脳がいかに研ぎ澄まされているかが分かります。イメージした形を適切にアウトプットしていて、まさにプロダクトデザイナーといった感じですね。

 

さらにスケッチに関して「形を描こうとしてはいけない、構造を描くことによって自然に形が生まれる。」と書いておられますが、その話はスケッチだけではなく動物や人間の骨にまで当てはまるようです。

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これも本の中に登場するダチョウの写真ですが、美しいですね。この骨格によってダチョウの生命を支えていると考えると、「機能美」という言葉にも頷けますし、人間は必死になって自然界の造形を盗むべきだと思いました。本文にて「人を寄せ付けない美しさ」とダチョウの骨に関して書いておられますが、義足までデザインされている方だからこそ、骨に関する完璧な機能美を賞賛しているのだと思います。

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そしてこれが、骨展(山中俊治ディレクション)において写真家ニック・ヴィーシーの写真だそうです。見ての通りドライヤーですが「構造を描くことによって自然と形が生まれる」ということが実感として伝わってくる写真です。本の中では他にもMacBookから歯車ひとつに至るまで、それぞれの機能と形について語られていますが、どれも作り手が0.01ミリ単位で仕事をしているということが分かります。世の中の物作りはこの0.01ミリによって支えられていると思うと震えました。

 

そして、そんな山中さんが「20世紀最高のデザインはなんですか」という質問の答えにはボーイング747と答えたそうです。

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ボーイング777などと比較しても747の方がよいと書かれています。(私は飛行機に関して詳しく知りませんが)確かに比較するとこの飛行機は形が整っていると思います。

 

ちなみにボーイング777はこちら↓

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747と777とを比較して、技術者は 「どちらも合理的な計算の結果である」と言ったそうです。しかし山中さんが食い下がって質問をしたところ、747は主に設計リーダーのジョー・サッターが決めた、ということだそうです。つまり、意匠設計と技術設計の両立を隅々まで行えるリーダーがいてこそ、完璧な機能美に近づけるということなのでしょう。そのジョー・サッターがいかに偉大なリーダーであったかが伺えます。

 

この本を読んで、目に入ってくる日用品の「機能美」について考える機会が増えました。すると醜いものも目に映ります。それらの構造について学び、場合によっては自分の手で解体していくことで、デザインという分野をより深く学べるような気がします。

 

私は山中俊治さんに直接お会いしたことはありませんが、きっとボーイング747のような方なのではないか…と思いました(的外れだったらすいません)。